ボンズ制作による2002年のロボットアニメ(?)、「ラーゼフォン」を視聴。
一応タイトルは知られているし、いつかは観なければと思っていた作品のひとつ。どうも主役ロボットのデザインが苦手でこれまでなかなか手が伸びなかった。
ただでさえ「エヴァ以降」と一括りにされがちな2000年代ロボットアニメの中でも
謎のロボに乗って正体不明の敵と戦い主人公のアイデンティティと世界再生がテーマとなればどうしたってエヴァとの比較は免れない。
まあ結果的に物語としては大して似ていないのだが、エヴァや「serial experiments lain」のような難解アニメが流行ったこともあってか、ストーリーを見せるよりもわかりにくさの構築が先行しすぎて非常にとっつきにくい作品になってしまっている。
※以下ネタバレ含む
まず全26話の作品でストーリーが大きく展開するのが20話あたりという遅さがキツかった。
一応終盤に色々と難解な部分が解説されていくが、バンバン出てくる固有名詞を整理しないまま終盤まで進んできたせいで説明されても耳から滑り落ちていくようになかなか頭に入ってこない不思議体験。
そして人によっては致命的なのが
これロボットアニメである必要なくね…?という気付き。
「東京ジュピターと外界の時間差」というアイディアは面白いので、それを軸にしたSFラブストーリー作品群としてオムニバス形式でエピソードを編んで、それぞれ微妙に繋がっていたりしながら最後に綾人によって調律された新世界に移行したことを視聴者に気付かせる…くらいの巧みな構造だったらレジェンドだった。うん。やっぱりロボットいらないな。
あとラブストーリーだからかも知れないけど、特に女性キャラが感情で動きまくるし、その振れ幅もいちいちデカくてついていくのが大変だった。
綾人は自分が何者かについて中盤以降ウジウジし始めるけど遺伝上の家族がTERRAに何人もいながら黙っていたり、バーベム財団に仕組まれた宿命はほぼ既定路線のままレールに従うしかなく一本道を牛歩で進むのを見せられるストレスがあった。そのくせ不死者と云われたバーベムの党首があっさり撃たれて終わるなど、何ともスッキリしないラスト。
それだけに調律後の世界もエゴイスティックというか独りよがりっぽく感じられ、無難なオチではあったが視聴者として観せて欲しかった「たったひとつの冴えたやりかた」ではなかったことへの残念感があった。
人気声優・下野紘のまだ拙い演技を聞くことができるが、デビュー作でこの難解作品を演じるのは大変だったろうな。
宮崎駿が監督したテレビシリーズ「未来少年コナン」を履修完了。いつか鑑賞しなければと思いつつ先送りしてきた作品だが、定額見放題のサブスクは古い作品や長い作品の視聴ハードルを劇的に下げる効果がある。
ポストアポカリプスの冒険活劇というボンヤリしたイメージだけであらすじも知らずに観たが、さすが宮崎駿と思わせられるシーンが随所に散りばめられていてクオリティは全体的に非常に高かった。
1978年制作の古典アニメなのでもっと古く感じるかと思ったが思いのほかテンポがいいしアクションシーンも意外とよく動く。オープニングとエンディングの曲はさすがにレトロだが当時の感覚の残り香だと思えばそれもまたよしだ。優れた物語を描くのに絵の正確性や解像度はそこまで重要ではないということがわかる作品だった。
古い作品といいつつストーリーの柱は「太陽エネルギー技術によるカタストロフ」と「共生社会への回帰」という極めて現代的なテーマが据えられていて、原作「残された人々」の原題が「大津波(The Incredible Tide)」であることも、東日本大震災を体験したり目撃した現代地球人にとっては放送当時よりもリアルに感じられるかもしれない(原作とでは設定が大幅に改変されているとはいえ)。
この作品で面白いのは
子供を通して大人が成長していくこと。「未来少年コナン」においては残され島の平和を終わらせたモンスリーがコナンと出会って変わっていき、その過程がそのまま大崩壊がもたらしたものとレプカとの対比を浮かび上がらせる構造になっているのが本当によくできている。
「主人公の行動で悪人が改心する」というパターンならば今も昔も定番だが単純な善と悪という構図ではなく、その根、環境や時代が自分を変えていることに気付く瞬間、そこを提示してくる作品は稀だ。
第一話から登場する裏主人公モンスリーは「大崩壊を引き起こした世代」への見境の無い憎しみを露わにしたのが印象的だったが、責任を論ずるよりも先に他人への信頼があることを当たり前のものとして知っている「大崩壊前を知らない世代」のコナン(そのコナンを育てたのも名もなき大崩壊世代の一人に過ぎないおじい)と接することで変わっていく。
ハイハーバーの長閑な風景と犬を見て大崩壊前の自分を回想したのがモンスリーのターニングポイントだが、描かれていないだけで悪漢レプカにもおそらく大崩壊後を生き抜くうえでの相当キツいバックストーリーがあってそこからロストテクノロジーへの固執と野望に取りつかれたであろうことが想像できるだけに、そんな殺伐とした任務のなかで奇跡的に救いを得たモンスリーの尊さが際立っている。
「鬼滅の刃」も鬼の討伐後のバックストーリー語りから救済(断罪と消滅)でカタルシスを得るスタイルだが、あれはわりと個人的な事情が多いのが非常に現代的で、炭治郎という特殊な共感フィルターを通さなければ「そんな私的な事情なんて知らんがな」で終わる話で、しかしだからこそ人の数だけ無数のパターンを拾っていくことを可能にしている…なんてことを思った。同時に炭治郎は「時代のせい」という普遍的な苦労には厳しそうだなとも。
話がそれたがモンスリーにしろダイス船長にしろ大人のズルさや憎たらしさをシッカリ演じていて、そこが魅力だった。オーロはマイナスの行動しかしてないので好感度はゼロ。レプカはムスカ大佐に通じる卑劣漢で、年端もいかぬ少女を焼き鏝で脅したりビンタを食らわせたり、ポリコレ時代にはなかなかできないホンモノの悪役を演じきっていて天晴。
悪の親玉が一切言い訳をせずブレない姿勢を貫くと碇のように物語を安定させるもんなんだなあと思った。
だいぶ前に途中まで観て放置していた硬派系ロボットアニメの金字塔、「装甲騎兵ボトムズ」を最初から観直した。
むせる。OPソング「炎のさだめ」の歌詞の一節ですべてを説明し得る稀有な作品。
必殺技もなければロマン兵器もなし。乗機は乗り捨ての消耗品だしパイロット自ら整備して戦闘サポートプログラムも組むDIYロボットバトルは令和になっても色褪せない魅力である。
(※以下ネタバレあり)
2大星系の休戦中に開発された強化人間「パーフェクトソルジャー(PS)」との遭遇を発端に繰り広げられるPS争奪戦と超文明の遺産をめぐる策謀に巻き込まれた主人公キリコが自らの運命に抗う物語……と、文字にしてしまえば本筋は意外とシンプル。
とはいえ敵に追われながら素体奪取作戦の背景を探ったりレッドショルダー時代のPTSDに苦しんだり、全52話かけて男・キリコ・キュービィーの生き様を追うシナリオは現代では考えられないほど贅沢な尺の使い方だ。
必要なイベントをクリアしていきワイズマンと決着をつけるだけなら半分の全26話に圧縮して話の密度を高めることも可能だろうが、ウドでのゴウト・ココナ・バニラとの関係構築やクメンでの傭兵仲間との信頼構築などはやはり全52話あってこそという重みが感じられる。
富野由悠季の「Gのレコンギスタ(全26話)」は現代基準においても動きと情報量が豊富だったが尺の短さのために説得力を高めるための演出とキャラクターに演技をさせる描写が足りず難解さと説明不足感が出てしまった。(ボトムズよりも遥かに登場人物が多く勢力図も複雑なGレコを26話にまとめたのも相当な離れ技なのだが…。)
いまボトムズのような人間関係の熟成や多くを語らない主人公の背中で魅せる演出をやるにはテレビという放送枠に縛られたプラットフォームから離れないと難しいだろう。
「スピーディーな展開」はそれだけでエンタメの快感になり得るが、ボトムズを観て
「渋さ」とは急がず、直接的ではないことなのだと改めて気付かされた。
そしてアーマードトルーパー(AT)の格好良さに痺れた自分。久しぶりにプラモデルが欲しくなった。
異世界モノが流行して久しく、令和になってはや3年。厳密には転生やら転移やらで分類されるようだが、いずれもチートと接待をパッケージングするのに便利な設定というだけでその違いに大きな意味はない。
自分が観たなかで転生の必然性を感じたのはキモオタ容姿を持ち越したら成立しない「無職転生」くらいだ。
そんななかで有名なのでいつか通らねばと思っていた「ソードアート・オンライン」。ネトゲをやらない層としてはあまり親しみのない設定なので単にネット世界で俺TUEEEEEのハーレム物かと思っていたが、案外それだけでもないようだ。
とりあえず本筋(だよね?)の一期からアリシゼーションまでを視聴。
一期の前半こそ「負けたら本当に死ぬシビアなMMOという設定の異世界モノ」的な作品として観ていられたが終盤はゲームマスターとの勝負という半メタな構造に意識を引き戻され、帰還後はバーチャル技術の進化と現実の関わりで生じる事件に焦点が当たるようになっていく。
原作を読んでいないので確かめていないが、おそらくアニメ版はかなり心理描写やロジック等の解説が省略されているとは感じた。
活字媒体とアニメでは得意な表現が違うので仕方ない(例:音を聞いただけではせいごう騎士が整合騎士という表記だとはわからないなど)が、キリトが説明なく勝利するので窮地から主人公補正だけで勝つ厨二病ファンタジーに見えてしまった。
それが顕著だったのがアリシゼーションのガブリエル戦。ユージオが何度も何度も助けに来てアンダーワールド内での死を陳腐化させたのは本末転倒…というかあれは演出の失敗か。消滅しても思い出はフラクトライトの中に、って話なのに繰り返し視覚映像として登場させるやつがあるか!というね。
茅場が乗り移ったロボットのバッテリー切れからの再起動も説明不足で無から有が生まれたか根性ロボ化したようにしか見えないのが痛い。原作でも同じ展開なら再起動にも何かしら記述があるだろう。
話がそれたが、バーチャル世界の情報量が現実のそれに追いついたとき、成長型AIの人格形成が人間と区別できない域に達したとき…というのは攻殻機動隊をはじめとした近未来SFの重要なテーマで、押井守の「GHOST IN THE SHELL」「イノセント」ではまさにその一点が核だった。
攻殻機動隊でのバーチャルなエンタメはあくまで電脳化社会の一側面に過ぎず、物語の軸足は物理世界の治安・安全保障といった極めて現実的な諸問題に向けられていたが、ソードアート・オンラインは電脳化社会の前段階として敷居の低いエンタメ(MMO)を配置したという点でまた別のリアリティを感じた。ビデオテープがあっという間にDVDに駆逐されたのはアダルトコンテンツの威力と言われているように、ある程度の長さを生きていると大衆の支持はそうしたものという実感が確かにある。
またそれとは別に「ソードアート・オンライン」で興味深いのはハーレムとは言わないまでも複数の女性キャラが主人公に好意を寄せながら絶対的ヒロインの座はアスナから一切揺らがないことと、SAOのシステムAIであるユイを娘としたと3人で理想的(?)な疑似家族を形成する点。
感情の発露は妹や他の女性キャラに任せてアスナとユイは出会った時からひたすら女神に徹するといういまどき珍しい構造で、70年代~90年代の正統派・あるいは従順とされるヒロインでももうちょっと自我がある。富野由悠季チルドレンとしてはあのヒロイン像・家族像のあり方は摩擦係数が低過ぎて物足りないのも事実(完全に個人的な趣味だが)。
現実と仮想空間は地続きであるというスタンスの作品であり主人公像であるから当然といえば当然なんだけど、各章ごとの敵を倫理面での悪として描いてキリトに打破させるし嫁も娘も完全無欠の女神だしで、もはやキリトは現実世界でも浮くレベルの聖人君子であることから逃れられないし逃れる理由すらもたない超人になってしまった。原作ではもうちょっといろいろ考えてるんだろうけど、アニメ版だけ観るとそんな印象。
それよりアリシゼーションのラスト、いきなり宇宙戦闘機が出たりキリト200年分の記憶の疑似人格は…という、ここからが本番ってところで「この話はここで終わり」みたいなテロップが出て「何ィ!?」となったのは自分だけではないだろう。
いや、なんだかんだ言って結構楽しめたんじゃないかな。
円谷×TRIGGERの「SSSS.GRIDMAN」の続編(?)というか、世界観は共有してるっぽいけどその辺の関係がよくわからないまま放送された「SSSS.DYNAZENON」。グリッドマンが好評だっただけに事前の期待は高かったようだが、その感想。
自分も期待していた人間のひとりなので最後まで見届けたけど、正直に言うと最後までどうもノリきれなかった感じ。毎回のヒキが悪いわけでもないのに話の続きがあまり気にならなかった。
「掛け値なしに面白かった」という人はこの先を読む必要はないが、ダイナゼノンを視聴して自分と似たようなモヤモヤを感じた人は一定数いると思われるので一応今回気が付いてしまった個人的なことを記しておこうと思う。問題は二点あるが、まずひとつ目。
これ、「現代の若者世代」向けの作品ですね。「それを口にしたら終わり、アニメは卒業したほうがいい」とツッコまれそうだが、現状はまだそうでもない。しかしこうまでハッキリと世代のギャップを俯瞰させられる作品が今後増えていけば自分が楽しめる新作アニメは確実に減るだろう。
※以下、ネタバレ含
大抵の国産アニメの主人公は十代の青少年であるが、その多くは「かつて少年であった」という点において中高年の視聴者にも共感できる余地が大いにあった。
わかりやすい例は主人公の動機がリビドーである場合だ。どんなにナンセンスな設定の異世界転生モノだとしても何かそうした一点で一致できればとりあえず視聴者は主人公の目線の高さに自分を合わせることができる。「お前は性欲ねえのかよ(笑)」という鈍感orヘタレな主人公もいたりするが、制作者が「そういう見せ方」をしてさえいればツッコミを制作者側と共有するような感覚で楽しむことは可能だ。このように視聴者が歩み寄りやすい仕組みがさえ用意してあれば主人公との年齢差は飛び越えることは難しくない。
しかしこのダイナゼノン、序盤からどうにも入り込みにくい。細かく指摘するのは面倒だし、最後まで観たので超ざっくりまとめると
登場人物に魅力を感じられなかった。
おそらくここが大事なところで、最終話エンディングの完膚なきまでの正解感を見るに、
登場人物に魅力はあったが自分にはわからなかったと考えるほうが自然だ。
個の集まりだったガウマ隊がそれぞれ(不自由な)繋がりを獲得していく話なのはわかる。怪獣優生思想と一部心を通わせつつ相容れない関係だったというのも一応わかる(しかし怪獣優生思想側の理屈は無茶苦茶すぎた)。
そしてこれまでのストーリーを踏まえれば順当な選択をしたはずなのにピンと来なかった最終話終盤のシズムと蓬の対話回想。
インスタンス・ドミネーションを使い怪獣使いとしての資質を見せた蓬はシズムから「怪獣のもつ強大な可能性」を明かされたにも関わらず一切揺らぐことがない。
AとB、ふたつの価値観の交わる位置に立つ主人公でありながら蓬の中に葛藤が生じないため、シズムの誘いを蹴って得られるカタルシスはかなり弱い。シズムによる「怪獣による自由」のプレゼンテーションが遅すぎ&下手すぎなのでそれ自体の価値がそもそも評価しづらいが、わざわざ蓬に直接否定させたことからここは制作陣の明確なメッセージと考えていいだろう。
しかし自分はこう思う。
自由よりも「かけがえのない不自由」を選ぶこと。
──これが高校生が迷いなく選ぶ回答か…?この現実主義寄りの価値観。若さの特権である飛躍に出番を与えない順当な結末。しがらみに縛られた大人と同じ回答を導き出すのなら主人公を少年に設定する必要性はなくなってしまう。
それでなくてもロボットの造形から合体バンク、戦闘の流れに至るまで「これをやっとけばオタクは喜ぶだろう」という演出・展開に徹したあざとさから計算したウケ狙いが鼻につくところもあった(これには
『B.N.A』の反省というか、TRIGGERに求められているモノを焼き直すと割り切ったのかもしれない)。
ただこのへんはアニメや特撮を年相応に観てきた世代として蓄積があるからそう感じるわけで、おそらく現代の若者世代に対し合体ロボット物としてのケレン味を新鮮に楽しませ、同時に現実的な価値観からは逸脱しない主人公に安心するように物語を設計したと考えることはできる。
しかし…映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』のラストで一緒に冒険に行こうと誘うジョニー・デップをオーランド・ブルームがあっさり断った場面のような、「いやお前そこは行くとこだろw」というツッコミを入れたくなるモヤモヤ感が残った。
この『劇画オバQ』のような現実に相対したときの少年主人公の行動に違和感をもったのは『ダーリン・イン・ザ・フランキス』あたりからだと思う。最後の最後に選択する行動が子供らしくない。少年の肉体を着た大人でしかないという印象を受けた。
自分が富野由悠季チルドレンということもあるが、少年に大人のような達観を演じ切らせる作品はどうも居心地が悪いのだ。
そしてもうひとつ自分がダイナゼノンにノリ切れなかった原因、もしかしたら上に述べたモヤモヤの引き金になったかもしれないのがこれ。
シン・エヴァンゲリオンという体験。極めて個人的で主観的なモノの見方ではあるが、実際多くのアニメファンがすでに劇場で観たであろう。あれは本物のおたくが作ったロボットアニメだった。結末は想像と違ったとしても、これだけ考察されながら誰も予想しなかった境地に連れて行かれたという賛否を超えた満足感。
きっかけひとつで5分前とは別人に成長するあの飛躍、あれをやってこそ少年を主人公に据える甲斐がある。
目指すゴールが同じ現実であったとしても、その過程で少年らしい葛藤と大胆な飛躍(結果的に失敗してもOK)が描かれるのを観たい。少年主人公の醍醐味はそこにあると信じる世代の戯れ言だが、蓬を是とするならせめて別角度から「蓬が選ばなかったもの」の正の側面も提示してキチンと異なる価値観同士を真っ向から対立させて欲しかった。
ただどうも続編があるらしいのでそこまで観ないと最終的な評価はできないかも。