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機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 感想 

 2017年4月2日(日)の夕方、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』が最終回を迎えた。放送終了後に賛否両論が入り乱れるのはガンダムシリーズの常だが、今回も例に漏れず大きな話題になっている。



 最近とあるサイトで「創作物を減点評価で批評する不毛さ」をかいま見る機会があった。それを己の戒めとしつつ、しかし『鉄血のオルフェンズ』を観終わった率直な感想を記しておこうと思う。

 もはや「アリかナシか」という二者択一で作品を語るのはナンセンスだと思っている。円盤の売上も消費者とのマッチングの成否を推測するデータに過ぎない。オリジナル作品はすべてアリという前提で話す。


 まず『「鉄血のオルフェンズ』の脚本が極めて歪であることは間違いない。というのも、そもそも鉄血世界が歪なものとして設定されており、歪な世界を管理する装置がギャラルホルンだからだ。

 最終話の後半でようやくギャラルホルンが「現状維持のための暴力装置」ではなく「時代の要請に沿って世界の在り方を調節する機構」であることが視聴者に明かされた。
 つまりギャラルホルン自体は鉄血世界の現実を映す鏡に過ぎず、歪な世に合わせて腐敗しているだけで、必要があればいつでも本来の役割を果たす組織ということだ。

 結果的に視聴者が「ギャラルホルンを打倒すべき敵であるかのように見せる」というミスリードに引っ掛かったような構図だが、この結末は

ギャラルホルンはその存在目的ゆえに
いかなる行動も罪に問われない


という超越的な特権の上に成立している。内部監査はあれど、所詮は身内での話。クーデリア暗殺計画や歳星での弾圧、アインの人体実験、ハシュマル起動の失態、自ら封じた禁止兵器での民間人虐殺、ラスタルのダインスレイヴ自演など、作中で描写があった悪行だけでも非人道的な武装組織と言わざるをえないが、結局ギャラルホルンを咎め得る外的要素は最後まで存在しなかった。

 にも関わらず腐敗したはずのギャラルホルンは暴走や独裁に走らない。四大経済圏からの極めて強力なシビリアン・コントロールが効いているという設定だそうだ。その理屈だと上記の非道行為は四大経済圏の文民が責任を負うはずだが、そんな様子もない。もっとも報道管制が徹底されているので、ギャラルホルンの行状を知るのは犠牲者と視聴者のみである。

 結論としてギャラルホルンは

作品世界の理不尽と脚本の破綻を封じ込めて
これと決めた着地点に問答無用で落とし込む装置


に過ぎない。そこに組織としての自我はなく、脚本と作品世界に片足ずつ軸足を置き、作品内外において生ずる疑問や矛盾をギャラルホルンという組織の異常性に収束させて整合性を調節する。無罪特権と退場回避は、制作サイドから与えられたその対価だ。だからこそギャラルホルンという組織から離れたキャラクターはその特権をただちに剥奪される。マクギリス・ファリドとガンダムバエルはその典型だ。

 (※長くなったので以下追記)


 先にギャラルホルンの行状は犠牲者と視聴者のみが知ると書いたが、それを内部から目撃して決起するマクギリスは鉄血シナリオ上に発生した特異点といえるだろう。創造主たる脚本家の分身、神の実子ギャラルホルンと養子のマクギリスは相容れない。

 この脚本家とギャラルホルンとの癒着を認識したマクギリスはアメコミキャラの「デッドプール」に似ている。演者が舞台上の自分と客席を自覚する、いわゆる「第四の壁」を突破したロボットアニメを自分は『戦闘メカ ザブングル』以外に知らない(あれはメタなギャグだったが)。

 だがマクギリスはギャグで済まさなかった。ギャラルホルンが脚本の装置に過ぎないことを看破し、自覚的に脚本に反旗を翻した初めてのキャラだと自分は見る。マクギリスがアルミリアを娶りキマリスを倒してボードウィン家を潰したのはガエリオをセブンスターズ、ひいてはギャラルホルンから切り離す儀式として機能する可能性を秘めていたはずだ。おそらくカルタ・イシューもマクギリスが直接引導を渡していればセブンスターズ特権のシナリオ補正がかかり二期で復活していただろう。

 二期で復活したガエリオもヴィダール仮面でいる間はギャラルホルン所属ではないため脚本に束縛されないオルフェン(孤児)状態でいられたが、マクギリスが脚本装置ギャラルホルン体制の革命を宣言した途端にボードウィン家の呪縛に屈して脚本側の尖兵となった。


 ここにきて初めて『鉄血のオルフェンズ』における敵味方の線引きが明確になった。

 すなわち、
脚本&ギャラルホルン同盟
      vs
マクギリス派&鉄華団(+視聴者)連合

 という図式である。


 ラスボス候補だったマクギリスが脚本を向こうに回して戦うなら、頼るべきはギャラルホルンによって犠牲者を出しながら視聴者と同じものを見てきた鉄華団をおいて他にない。決起後のマクギリスの妙なハイテンションを視聴者が疑問視する向きもあったが、自分を男娼の境遇に置いた脚本家とそれに加担する組織を離脱した解放感と高揚感は我々の想像を絶するものがあろう。

 マクギリスが阿頼耶識手術を受けてバエルを確保したのは厄祭戦を直接終わらせた機体という戦績とギャラルホルンの象徴という「勝ち組設定」を逆手に取った妙案であり、そのうえで阿頼耶識持ちパイロットが多数在籍し、かつガンダムフレーム近代化改修機を3機所有する鉄華団と組めば設定上は負けるはずがない戦力だったはずだ。少なくともハシュマル戦までは阿頼耶識&ガンダムフレーム1機の優位性が圧倒的なものとして描かれていたのは事実。ガンダムフレーム4機による天元突破で一気にラスタルの首を取る「頂上作戦」も充分成功が見込める。

 しかしギャラルホルンを離れたバエルはその魔法が解けて骨董品MSになり下がり、マクギリスに与した鉄華団のガンダムフレームもその圧倒的な優位性をことごとく剥奪される憂き目に遭う。逆に宇宙でのアリアンロッド艦隊戦では阿頼耶識なしのジュリエッタに強烈な補正がかかりバルバトスを足留めしつつフラウロスの狙撃を妨害。機体は大破するも生還&即復帰という脚本からの祝福を得た。

 ガンダムフレームを圧倒的なものとして描き、4クールにわたってその設定にふさわしい実績と説得力を積み上げてきた当の脚本サイドがマクギリス鎮圧のために基本設定をひっくり返した。
 ガエリオは主人公のように振るまい、マクギリスは無能な愚者として描かれて死に、最終決戦は公式バランスブレイカーのダインスレイヴで決する。

 自分はこれを視聴者への裏切りと受け取る。

 「幸せに本物と偽物があるのか」というマクギリス最期の問い。この二択に自信満々でジョーカーを引いたガエリオが自分には滑稽であった。偽物を本物と信じて疑わず踊らされたのはどちらか、出自が二人の運命を分けたこの結末をどう受け取るべきか。マクギリスの誤算は「さすがに終盤で大きな設定変更はするはずがない」という脚本への過信、それだけであった。

 余談になるが、鉄血のオルフェンズ最大の被害者は誰かというと、実はイオク・クジャンだと思っている。彼は軽率で愚かだが性質そのものは悪ではない。むしろカリスマ性と行動力は作中トップクラスで、脚本を動かす起点として機能しまくり作品への貢献度では間違いなくMVPに輝く功労者だ。

 視聴者と鉄華団から強い恨みを買いつつも脚本との盟約によって生存を約束されてきたが、最終話で唐突に見捨てられて戦死する。徐々に潰れゆくコクピットの中で、イオクはこう叫んだはずだ。

エリ・エリ・レマ・サバクタニ
(神よ、神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか)
(マタイによる福音書)

 それまで不死属性にあったイオクが殺された理由は、脚本への逆賊マクギリスが討たれると同時にバルバトスとグシオンリベイクの弱化補正が自動的に解除され、大破しながらも本来の能力を取り戻していたことによる。さらに脚本の優先事項はすでに鉄華団の壊滅にはなく、最終着地点に向けた次のフェイズに移っていた。そして最終着地点への地ならしとはセブンスターズの解体とギャラルホルンの改革(脚本との契約更改)に他ならない。

 セブンスターズでも脚本の流れに逆らわず身を委ねたガエリオとラスタルは死ななかった。イオクが生きていようが死んでいようがセブンスターズ解体シナリオは成ったと思われるが、愚直に脚本に忠誠を示すキャラであろうとし続けるあまり潮目が変わったことに気付かず脚本から半歩取り残され、うっかりアキヒロに接近しすぎたのが運の尽き。

 脚本への貢献度にも関わらず、視聴者の鬱憤を晴らすだけの役を演じさせられたイオク。彼もまた「偽物の幸せ」を掴まされた道化として使い捨てられ、特権階級からのオルフェン(孤児)に堕とされた無残な最期を用意されたことは最上級の皮肉であったと思う。




 最初に書いた通り、オリジナル作品はどんな展開も基本的にアリだ。某マンガ家はブログで共同体単位での文化衝突を緻密に、そして厳格に描き切ったことを絶賛していた。それについては読めばほとんどの人が納得できるはず。

 ただし視聴者の多くがガンダム作品、そしてオルフェンズに期待していたものはヒロイズムを犠牲にした作劇論の成功ではなかったように思う。なぜならガンダムフレームという野心的な試みを取り入れ、それを途中まで実際に英雄的に描いて視聴者の期待を煽ったのが他ならぬ制作側だからだ。
 これが中古の型落ち量産型モビルスーツを魔改造して運用する程度の愚連隊が死ぬべくして死ぬ物語であれば、また別のロマンとカタルシスがあったと思う。少なくとも「脚本に楯突いたから負けた」という印象はなかったはずだ。

 上に長々と書いたマクギリスが神(脚本)に挑んで敗北した説は、打ち捨てられたヒロイズムのやり場を自分が求めたためでもある。
 マクギリスは無謀と知りつつ『ベルセルク』におけるゴッドハンド、『ジョジョの奇妙な冒険 第四部』の吉良吉影(バイツァ・ダスト)、『装甲騎兵ボトムズ』の異能生存体キリコ・キュービィに対して一人で挑んでいったようなものだ。
 狂戦士の鎧もスタープラチナも持たず、バエルは塩の柱にされ、全能力低下のステータス異常を引き起こされて散った。そんなマクギリスを無能と叩くのは酷というものだろう。

 ついでに言うならここまで書いて鉄華団について特に書くことがほとんどないという、それこそがそもそもの作り手と視聴者の一番大きな乖離だったのかもしれない。

 いつかマクギリス・ファリドが再評価されることを願って、これで終わりとする。
[ 2017/04/28 13:30 ] 映画・アニメ感想 | TB(0) | CM(0)

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